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■「大谷川放水路」への道のり
昭和28年(1953)静岡県第六次総合開発計画が発表され、巴川流域治水対策の方法は「大谷川放水路」を建設することであるという一方的な計画が明らかになりました。
このことは、地元大谷の住民にとっては全く寝耳に水のことで、村をあげての大騒ぎとなり、いち早く「大谷川放水路反対期成同盟会」を発足させ、建設反対の意志を表明したのです。
水は高いところから低いところに流れるという原理原則から考えてみたとしても、今まで「巴川」へ充分に吐き出すことができなかった麻機・上土・千代田・長沼・古庄・池田・小鹿地域の広範囲の雨水を「放水路」が受けることになる計算ですから「大谷始まって以来の大事件だ」と考えても極めて当然のことでした。
(※大谷川放水路について、地元の大谷川対策委員会が県・市と妥協したときに、当時の県土木事務所の天野所長や青木技監は「ここまで来るには本当に厳しい長い道のりでした。感激ひとしおであり、この気持ちを地元の皆さんに厚く感謝申し上げる次第であります。おもえば『大谷川放水路』の説明会に入ろうとしたとき、大谷の皆さんに鍬やスコップを振り回され、命カラガラ逃げ回ったことがまるで昨日のように思われます。」と話されたことに、大変実感が込められておりました。)
その歴史を振り返っての「大谷川放水路」をまとめてみますと、
(1)巴川は清水の折戸までの間、河川勾配が小さく、しかも麻機地区の海抜が低いため、水が流れず、いったん雨が降れば、長尾川と巴川との合流点から逆流するという宿命を背負っていたのです。そのため、治水問題の解決方法は、大谷川放水路建設以外に考えられず、道路や建物のように「ここがダメなら他の所に」という訳にはいかなかったのです。
(2)県が計画案を発表した(昭和28年=1953)後の、昭和35年(1956)には、静岡市議会に、「大谷川改修特別委員会」が設置された経緯をみても、静岡市にとっていかに重要な課題であったかが窺われるのです。
(3)一方、地元側は「放水路」を受け入れることによって「水害」を招くという、未来永劫にわたる遺恨を残してはならないと、村の団結が図られたのです。以上の三つが昭和28年から昭和35年の間の状況でした。
次に視点を変えて「行政側」及び「住民側」の動きについて、整理をしてみますと、○行政側の動き→大谷地区の新しい環境づくりを前提に、農地を命としている大谷住民の経済基盤の変化を図り、そのことによって、意識改革を住民に求めたのではないでしょうか。
というのも、昭和30年代後半から40年代にかけての事業に次のような点がみられ、このことはまさに県の第六次総合開発計画の大谷川放水路計画推進への布石であったのではないかと推察されるのです。
(1)東名高速道路の路線計画が、由比・蒲原地域と同様に海岸線をたどる「清水港〜三保〜久能海岸〜大谷海岸〜中島」の案に対して、第二次案的存在であった「草薙〜日本平〜大谷〜中島」が静岡市で採用され、大谷の田圃を南北に分断したこと。(※大谷地区は、東名高速道路を盛土方式にし、その盛土に有度山の山土を使った。)、(※東名高速道路の盛土用に搬出した跡に、大谷ゴルフ場が建設された。)、(※盛土方式の区間で「大谷川放水路」の計画路線に合致する河川路は、橋脚が放水路幅員で設計・工事されていた)。
(2)有度山麓には、適地が数多くあるが、大谷地区にに静岡大学の移転先を求めた(県立大学、美術館、図書館は谷田地区)ことは地理的条件ばかりでなく、農地地権者に対し、農業から学生相手の下宿など副業収入への経済基盤の変革の道を拓くことでもあったのではないでしょうか。(昭和38年〜昭和40年)。(※地元代表5名が、市を訪れ、将来の大谷開発を考え、大谷総合開発、離農対策を条件に賛意を表明したのが昭和39年10月12日でした。)、(※地主287名が、総額11億7500万円の大学用地売渡契約に調印したのは、昭和40年9月27〜30日でした。)。
(3)風致地区という、開発には規則が厳しい有土山の約16万5000平方メートル=約5万坪という広範な土地を、宅地造成(殖産住宅)分譲地として、大規模な開発行為の許可をしたこと。(※これ以前に伊庄ヶ丘分譲地の宅地造成を市の公社が行っている。)。
(4)県が許可した大谷土地改良においても、「土地改良法」を利用して、将来の都市化を加味した区画事業が推進され、道路の交差点は2メートルの隅切りをとるなど、自動車交通に対して配慮されていたこと。
(5)この土地改良事業では、都市計画上の計画街路とともに、大谷川放水路が基本的に存在していたのではないか。○地元の反応→「大谷川放水路」の路線計画は、中野小鹿線(通称SBS通り)から恩田原、宮川、水上、瀬戸田、西大谷、河口までの3600メートルです。大谷の宮川・片山は丘組、東大谷・西大谷は浜組と大きく二分され、土地改良事業については丘組・浜組の全てに地権者がおり、共通した利害があるものの、放水路については、「水害」からの安全を期することを前提とすれば「河口」の西大谷、或いは「低地帯」の東大谷の安全度についての認識を一つにすることが団結の柱であったのです。
行政からの攻勢に対して、利害に走る部落ごとの単独行動が懸念されたものの、先人達が残した「一村一寺一学校」の理念が最後まで活かされていたからこそ、円満な双方の妥協がみられたわけです。
この団結を行政側が切り崩すような愚策を考えたり行動に移したりしたとしても、それに応じるような愚人が大谷には一人もいなかったはずであります。もし、そのような事が行われていたとすれば、過去の静清バイパスのような決裂状態になって、永年にわたり抜きさしならない状態になっていただろうと思われるのです。
静岡市には多くの問題を抱えている「公共事業」が数多くあります。
「大谷川放水路」と「静清バイパス」は、是々非々の代表として対比できるモデルではないでしょうか。その最たる考え方が、昭和28年からの「大谷川反対期成同盟会」を、大谷学区連合町内会長・長島顕氏の提言から、昭和49年6月に「大谷川対策委員会」へと性格と目的の変更を図り、初代委員長に長島顕氏が就任し、昭和53年には、二代目委員長に山田育三氏が就任しました。
そして、「大谷の安全を期する」ことを基本理念とする、地元のまとめ役として、県・市との交渉に入っていったのです。
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