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私の人生のアルバムを振り返ってみると、母の厳しい「しつけ」と「愛情」そして子供の為にと、もくもくと汗水を流して働いてきてくれた父の背中を見ながら家庭の中で育てられてきたことに、今日の「人に負けるな」の自分があるのだと思います。
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■昭和15年(1940年)4月15日生誕
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父=伊東賢之助、母=輝子の長男として
愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)で生まれました。
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■昭和22年(1947年)2月4日「守山町立守山小学校入学」
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母の着物の帯しんで一生懸命縫ってくれた手作りのランドセルの代用品に、
父親の洋服を解き、縫い直しをした学生服を着せてもらって入学式を迎えました。
入学式の朝、子供心に思わず「お父さん、お母さんありがとう」
と大きな声で叫んだとき、うれし涙の母の笑顔が今でも思い出されます。
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■昭和28年(1953年)4月「名古屋市立桜ヶ丘中学校入学」
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クラブ活動ではバレーボール、
生徒会活動では、1年生=生徒会書記、2年生=生徒会副会長、3年生=生徒会会長
という貴重な体験が、現在の政治の道への道しるべになったことと思います。
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■昭和31年(1956年)4月「愛知県立旭丘高等学校入学」
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全国有数の大学進学校に見事合格し、高校でも中学時代と同じように、生徒会活動、クラブ活動にも活躍しました。
スポーツは、「まわし」一本あれば裸と裸の勝負でもあり、「部費」が何よりかからず、礼に始まり礼に終わる日本の国技には「根性と忍耐」を植え付ける武道としての大きな魅力が感じられ、当時の体重が60kgしかなく特に強かったわけではないのですが、「相撲部」入りを選択しました。
先輩達からしごかれる「ケイ古」に、気絶することも度々でありましたが、二年の後半からは力もつき愛知県代表で全国大会に出場できるようになり、金沢大会では全国優秀16校に入ったことが、良い思い出として残っております。
愛知県代表選手の仲間に、「サンダー杉山」(栃王山=幕内力士」がおりました。
高校三年にもなれば進学校なるが故に、級友は目標とする大学を決め、受験勉強に余念がないというのに、私は相撲部の主将のため各大会に備えてのケイ古に明け暮れておりました。
すでに国立大のストレート合格は無理であり、私立や浪人は家庭の事情と母の性格からして許して貰えませんでした。
クラスでただ一人就職を決意したとき、今まで机を並べてきた仲間とも将来は学歴差がつくことに、たまらない敗北感を味わったものです。
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■昭和34年(1959年)4月4日「就職」
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商業高校でなかったため、就職試験の「簿記」「珠算」は知識がなく白紙で出すしかありませんでした。
確か、7・8社のすべて不合格だったと記憶しています・・・
当時はナベ底景気のどん底でもあり就職難の一番悪いときにぶつかってしまったわけでもあります。
父の紹介で、やっと三菱重工(株)の下請け会社「久野産業(株)」に入社させてもらったものの、従業員30人ぐらいの小さな町工場でありました。過酷な労働条件の中、初めての給料(初任給6,000円)で、仕事帰りに父とホルモン焼き屋の片隅で初めて父にご馳走した酒の味は、働くことの喜びに満ちあふれていました。
3ヶ月も過ぎた頃、転職の機会をいただき三菱セメント(株)の子会社である菱産スレート(株)名古屋支店に転職しました。
「学歴だけが人生の勝負ではなく、人間は死ぬまでの一生が勉強であり、勉強の場は学校に限らず自分から求めればどこにでもある。」という母の教えが、私の唯一の励ましの言葉、心のよりどころだったかと思います。
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■昭和36年(1961年)2月26日「静岡に転勤」=20歳
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日本の経済も高度成長期時代への幕開けをかざり、会社の設備投資、工場増設等が盛んになってきました。
我が会社も静岡出張所開設計画が本社で発表され、その開拓者に任命されました。
雨の降る2月26日、準急東海1号にのってはじめての静岡の地を踏んではみたものの、知人、友人がいるわけでもなく、たった一人でオフィス兼住居を借り、スクーターで地図と電話帳片手の販売拡張の仕事は毎日が孤独との戦いであると云っても過言ではありませんでした。
どんなに苦しくても、自分の努力が試されるチャンスであると同時に、この静岡が社会人としての生まれ故郷になるんだという気持ちが心の支えでもありました。
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■昭和37年(1962年)4月13日「結婚」=22歳
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静岡での営業も汗を流しながらも順調に成績を上げ、職員の増員をという拡張計画から、まだ22歳という若さではありましたが、結婚を早め共稼ぎをすればどうかということになり、会社の上司、両方の親も賛成してくれましたので結婚式を名古屋で挙げることになったのです。
ところが式当日は、新婚旅行も新婚ムードもなく、式が終わるとその足で静岡にトンボ返りして翌日から仕事に出勤したのであります。
それというのもたった一人の出張所なので、私が休めば会社も休日になってしまうからでした。
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■昭和38年(1963年)8月25日「長男誕生」=23歳
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23歳の若さで父親となることに責任とか実感よりも、これから先き父親として「パパ」と呼ばれる不安と照れ臭さがあったことが思い出されます。
会社は静岡出張所から営業所に昇格と同時に、小黒の新社屋に移転。従業員も職人を含めて15人に増員されました。
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■昭和40年(1965年)3月「静岡青年会議所入会」=25歳
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静岡での友人を求めて静岡青年会議所に入会させていただいたものの、さすがに若手経営者の精鋭家ばかり、それも一国一城の主というか、行動力のあるメンバーばかりで、入会当初はついていくことができるかどうか大変不安でもありました。
今までは、会社という傘の下でしか社会を観る感覚しかなかった私に、フレンドシップ(友情)、トレーニング(修練)、サービス(奉仕)という三つの柱に青年会議所の自由活発な活動には、広い視野に立っての人生観をも変える動機ずけにもなったのであります。
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■昭和41年(1966年)3月4日「(有)伊東ビル 発足」=26歳
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経済成長と共に大企業大資本の系列化、吸収合併がすすんでおり、我が社もそのあおりで大資本という権力にものをいわせたような役員人事に、尊敬する社長が経営交代を余儀なくされたときに、反発心が沸々とし、「よし!自分自身で独立してやろう」との気持ちが強くなってきました。
反対する女房、母を何度も何度も説得を重ね、3月4日に有限会社 伊東ビルを資本金50万円で設立発足しました。
とはいうものの、小さな船に荷物を一杯のせて、今にも沈みそうな船出と同じ鉄筋コンクリートならね借金コンクリートのスタートだったのです。
失敗は断じて許されません。
スタートしてからの2年間は、本当に苦しい資金繰りが続き、不眠不休というよりもむしろ眠ることが怖くなってくるような毎日でありました。
苦しいときに自分で自分にムチ打つ言葉が
「人に負けるな、人に出来て自分にできないはずはないんだ!」
と、毎日が息をもつかせぬ戦いでもあったのです。
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■昭和50年(1975年)8月25日「市議会議員初当選」=34歳
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静岡生まれ静岡育ちでない私には、静岡に同級生や親戚等もありません。全くの無名の私ではありましたが、天性として生まれ持ってきた政治理念、政治感覚を一人でも多くのみなさんにご理解をいただき、又育てて頂くことができればと、途方もない「夢」を懐き、やみくもに34歳で立候補の決断をさせていただいたのです。
生意気にも34歳の若さと、"行動する若い力"の考え方を有権者の皆様に訴えることができ、初陣の激戦を第44位で当選したのでした。
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