01:大岡越前守と大段・小段
片山地区有度山の西側の斜面を字名で大段、宮川地区の西側を字名で小段と呼ばれており、現在は静岡大学になっております。この大段・小段と呼ばれている土地は、久能山東照宮の御神領でありましたが、片山村・宮川村の住民たちが、耕地として開発をしたい旨、延享元年(1774)の年も押しつまった12月23日に久能役所に願い出たのです。
現在の民主主義の時代と違って、幕府に願い出ることは大変勇気のいることでありました。東大谷・西大家の村にも呼びかけたのですが、むずかしい問題やどんな条件が出されるか不安であったので片山や宮川の仲間に入ることを断りました。しかしながら片山・宮川の人達は「この事をお願い申す以上は、例え江戸まで出頭を命ぜられたとしても、その費用は、わずかな家財を売り払ってもがんばり、日毎の貧しさをいとわぬ決意です。このままでは生活は苦しくなるばかりで、もし耕地の開発が許されなかった時は、私共、村の家族は親・兄弟が別れ別れになってふる里を離れ、しかばねを道端にさらすような見苦しいありさまになり果てることも止むを得ないのです。」と申し立てました。
こうして、耕地開発の勇気ある願い出は、江戸の寺社奉行「大岡越前守」に取上げていただくことになったのです。最初は、翌年の7月2日に片山・宮川の名主・組頭が駿府代官所に呼び出され、耕地開発の願い出に先立って冥加金の上納、75両(1段について金2分・大段=14段にわかれ、面積3町6反4畝24歩小段=9段にわかれ、面積2町2反7畝15歩)を納めるようにと申し渡しがありました。思いもかけない仰せつけに驚き、久能役所にまかりでて事の次第を報告したところ、「代官所にもう一度出向いて行き、24両にしていただくよう願い出るように。」と指示が与えられたのです。その旨、代官所に願い出たところ、代官所から3ヶ年間は年貢免除期間とし、1ヶ年に8両づつ、3ヶ年で24両納めることが出来るよう江戸おもてへ進達する約束をしてくれたのです。その結果江戸おもての大岡越前守は、耕地開発を許可されたばかりか
1.冥加金は免除する。
2.困窮の村であるから杉木は両村に仰付ける。
3.寅・卯・辰の3ヶ年間は年貢免除期間とする。
と先の駿府代官所の判断をはるかに上まわる好条件を示されたのです。
片山・宮川の村人たちは、涙して「このご慈悲を子孫代々まで語り伝えると共に、熱心に開発し年貢納入もおこたりなく御公儀には忠誠をつくしてまいります。」と決意したとのことです。
寛延2年(1749)6月29日に駿府代官所から耕地開発の検地は7月3日に行う旨の通知があり、それからは茶畑、みかん畑、野菜畑など村人たちの大切な財産として生かされることになりました。片山・宮川の村人たちが大段・小段の耕地開発を思い立ったのが元禄12年(1699年)であったと云うことから村人たちの夢が成就するまで何と50年もかかったのです。
このように、片山・宮川の村人たちが、涙と汗で耕地開発をした大段・小段があったからこそ、現在の静岡大学の建設が出来たことを忘れてはなりません。(大段小段新田検地帳より)
大谷の小字で段と呼ばれるものは、
「大段・小段・ササゴ段(笹子)段・スベッテ・コロンデ伊庄の段・またまたコロンデ上段」
テレビで放送されている「大岡越前」は江戸町奉行の役人としてドラマに登場しておりますが、実像はテレビ・ドラマの通り大変立派な人格者であったそうです。
八代将軍・徳川吉宗公の信頼が厚く、延宝5年(1677)生れで正徳2年(1712)伊勢の山田奉行となり、ここでの公平な裁判ぶりが吉宗公の耳にはいり、享保2年(1717)には40才で江戸町奉行にとりたてられました。その名奉行としての実績から元文元年(1736)59才で寺社奉行に異例の昇格となったのです。
宮川・片山からの陳情は、久能御領内(東照大権現領地)なので、その当時の寺社奉行の大岡越前守と地方奉行の長であった神尾若狭守と合議の上、亡き家康公の東照大権現の領地であるだけに、将軍の吉宗公にまで上申したのではないかと思われます。
開墾の許可をいただいた「新畑」から作物が収穫できなくとも検地をうけた以上は、相当する年貢を収めなければなりません。大段は山すそにある山神通から14段。一方小段は、山神通から9段に分れており全体に、耕地としては劣悪なものであったそうです。この大段・小段で耕作をしていた人たちから肥料をかつぎ上げたりした時の苦労話を今でもよく話してくれます。
著書「大谷の里」より
※) 詳しい資料、写真等は本の中で紹介しております
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